人文系私設図書館 Lucha Libro

桜の絵 つぼみの絵

なぜ「本」なのか

 いつのころからか、私自身の関心が「社会的包摂social inclusion」という言葉によって表現されることを知った。

 幼いころ、母の仕事場である病院によく出入りしていた私は、看護師の方々や患者さんといった、自分よりも年上だったり、どこかに不調を抱えている人たちのなかで育った。おそらくその経験からだろう、社会やコミュニティーは「弱い」方々をベースに考えられるべき、という思想のようなものが身についていたのだと思う。しかし私が一種の「共同体主義者」であったかというと、決してそんなことはなかった。その理由は、中島岳志氏の著作にヒントがある。

 かつての日本の共同体にはインクルージョン(包摂)の中にエクスクルージョン(排除)の力学が働くという傾向がありました。閉鎖的なコミュニティの中では、ヒエラル匕ーや同調圧力に従順であれば、既存の利益集団の中に包摂されるのですが、口答えしたり異論を唱えたりすると、あっという間に排除され、場合によっては村八分にされてしまいました。固定的なコミュニティの中では、従順であることや空気を読むことこそが求められてきたのです[i]

 「空気を読む」に代表される「日本的コミュニティ」への違和感を、私は小学生時代からビシバシと感じていた。できれば一人でそっとしておいてほしい、なぜやりたくもないことを「みんながやるから」という理由でやらねばならないのだろう。こんな疑問を常に抱き続けてきた。過去形ではなく今もなお、フッと頭をもたげてくる瞬間もあるけれど。

 私はずっと「集団」が苦手だと思っていたし、確かに今もそういう面が間違いなくある。しかし少し経験を重ねてみると、苦手な「集団」と居心地の良い「集団」があることに気がついたのである。問題は集団が、「同質的か否か」だったのである。

 また私は年を経るごとに、「集団は必要だ」と思うようになってきた。特に近年、高齢者や貧困者、被災者といった社会的弱者の孤立化が進み、いわゆるセーフティネットがない状態になっているというニュースを見聞きしたのもその思いを加速させた。

 これからの社会は、経済成長を前提としてきた今までの社会とは形が異なってくるだろう。いわゆる定常型の社会へ。つまりサービスをお金で支払うことで回っていた社会から、「やりくりする社会」になっていく。お金の存在が覆い隠してくれていた、面倒くさい部分や見たくない部分にも、目を向けざるを得なくなっていく。

 近い未来における私の第一の希望は、「できれば居心地の良い集団のなかに居たい」というものである。人間の弱さや痛みを分かち合える集団というと、言うは易い。では実際そのような集団には何が必要で、そのような集団を志向するなかで、自分はどのように振る舞えば良いのだろう。かつて人類史のなかで、そのような集団に近いものはあったのだろうか。

 私はその集団の中心に、「人間の理性では到底計れない世界」の存在が不可欠だと思っている。そして「世界」へのアクセスとして、「本」が重要な役割を担っていることを確信している。

[i] 中島岳志『「リベラル保守」宣言』新潮社、2013、140頁。