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「土着人類学」について考える(2)

 「土着人類学」のキーワードのひとつ、「土着」について考えてみたい。

 「土着」を辞書で引いてみると「先祖代々その土地に住んでいること。また、その土地に住みつくこと」と出てくるのだが、「土着人類学」にとってこの意味は全体の一部であって、すべてではない。例えば、私の考える「土着」はふたつに分けることができる。内側のベクトルを持つものと、外側のベクトルを持つものと、にである。もちろんこのふたつは切り離されているものではなく、連環のうちにある。

 まずは内側のベクトルについて説明したい。約6年前、私は「土着人類学」について以下のような文章を書いた。

 ぼくは自分の「関心」の中でモノをみている。自分の好きなもの、嫌いなもの、良いもの、悪いもの、美味しいものやまずいものはすべてこの「関心」という枠組みを通して目の前に現れてくる(と思っている)。目の前にあるものには、幾分か自分のバイアスがかかっているのだ。つまり世の中は、普通言われているように自分とは関係のない「世間」によって出来上がっているのではなく、自分を通した向こう側にのみ存在する、と勝手に思っている。

 言いかえれば、「関心」とは自分が一生付き合っていかねばならない「病」であり、土着なのである。だから捨て去ることはたぶん難しい。でも見た目を変えることはできるかもしれない。そのためには、「関心の形」を知ることから始めたらどうだろうか。

 ぼくは「関心」を通じて世の中をみているがために、この「関心」にもっと自覚的であれば、世の中が変わる気がしている。まずは自分の「関心」を知ること、そしてその「関心」を他の人に知ってもらうことをしてみたい。他の人というのは、まずは「自分」かもしれない。まぁややこしい話はおいておいて、土着人類学とは、「関心」という自分の土着に気がついていくという「実学」なのである[i]

 私は文の中で「土着」とは自分の関心である、と述べている。つまり「土着」に込められた内側のベクトルとは、自分自身の内に向けられているものであり、目を背けられないものといった意味だということができる。

[i] 『土着人類学』第1号