人文系私設図書館 Lucha Libro

桜の絵 つぼみの絵

ちゃぶ台の上のメモから①:「本と刺繍と川と」

ブログで文章を書くのを再開します。

といっても長文ではなく、簡単なものを。完全ではない、断片的なものを。「ちゃぶ台の上のメモから」と名付けて、キュレーターと司書が、往復書簡のような形で時々書いていきます。当稿はキュレーターの書いた「始原の場所」という文章に応える形で、司書が以前に書き溜めた中から引っ張ってきました。

 

とある町の図書館で、当館についてお話をしました。珍しく、夫婦セットではなく私だけで、「本と刺繍」について話してほしいという嬉しいリクエストもいただきました。人前で話すのが上手ではなくて、相変わらずあっぷあっぷだったのですが、その中で、自分でもまだ説明しきらない感覚について、ふと口走ってしまいました。「川を見ていたら、面積が大きい刺繍に取りかかれるようになった」ということです。あっぷあっぷでどう説明したのかよく覚えてはいませんが、本と刺繍と川とは、必ず自分の奥底で繋がりあっている事物です。

 

本も刺繍も川も、時間を内包した存在だと思います。本は書くのにも、読むのにも時間がかかる。過去の作品から手法や概念が脈々と受け継がれて今に至るのだと考えると、一冊の本にも、無数の書いた人、読んだ人の時間が綴じ込められていることに気づく。刺繍にも、ひと針ひと針すくった時が縫い込まれている。だからよく「これ、どれくらい時間がかかったんですか?」とお尋ねいただく。糸の向こうに時間が見えるんだと思います。

 

川の流れにも、時間が見えます。東吉野村に越してきた頃、散歩しながら川を眺めていたらふと、「この川はずっと昔からここを流れていて、これからも流れていくんだろうな」という気がしました。水量が減ったり景色は変わっているとは思いますが、幕末の志士も、水面を見つめていたかもしれません。そうすると、都市にいた時には疑わしさすら覚えた過去、未来と「今ここ」との連続性を、急に信頼できるようになりました。もちろん連続しているから「今ここ」がある筈なのですが、街では、過去から脈々と続いてきたものとの断絶を日々目にしていました。次第に、未来とも繋がらないように思えていたのもしれません。

 

過去、未来と「今ここ」の繋がりが信じられて「それなら、ひと針ひと針縫っていけば、いつかは出来上がるだろう」と時間を当てに出来るようになりました。以前は始める前から「大きな布に刺繍を始めても、完成しないかもしれないから」と思っていました。今も1日に3針くらいしか進まない日もあるし、縫いかけでしばらく放置している布もあります。そんなものも、川の流れが石や木に引っかかりながら流れ続けるように、「いつかはまたググッと進んだり、また手に取って針を入れるんじゃないかな」と眺めています。そんなこんなで今日も、川の向こうで図書館を開いて、司書席に座って刺繍をしています。本も刺繍も大して知識や技術がある訳でもないのに、ずっと自分の近くにあるものです。それ自体というより、内包された時間を感じる感覚を、おすそ分けしたくて開いているのかもしれません。

 

(青木海青子)