人文系私設図書館 Lucha Libro

桜の絵 つぼみの絵

そんな世界の片隅で

 日々楽しく暮らしております。

 奈良県の東吉野村に引っ越してきてもうすぐ一年。特に大きなトラブルもありません。あ、猫のかぼす館長が二度、家から出て行ってしまったことがありました。それ以外は平穏無事な生活を送っています。

 昨年から人文系私設図書館ルチャ・リブロとして我が家を開き、本の貸出などを行っています。東吉野村には図書館がないので「こんな田舎で本が読めるなんて!」と有難がって下さる方もいらっしゃいますが、実は私たちはそのような「公共心ファースト」で図書館を開設したわけではありません。

 図書館をつくった最も大きな理由、それは「人間とはなにか」について、自分なりの答えを出すためです。といいつつ、答えなんて出ないこと、答えは人それぞれなことはうすうす感じています。答えは出ないのだけれど、出そうとする。人それぞれかもしれないけれど、普遍性について考える。その堂々巡り、というか負け戦をなんらかの形にしたい。そういう思いが、この図書館の根底にはあります。

 もうひとつ重要なことは、「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」は図書館を名乗っていますが、いわゆる図書館ではないということです。たしかに本があって、貸し出しもしています。ただ図書館という「センター」を地方につくることで、腰を据えて、地に足つけて、風を感じつつ、同じような関心を持った方々と出会うこと、そこに重きがあります。

 ということを話した後で、「で結局、図書館をつくって何がしたいのか」と聞かれることがあります。そういうときはとりあえず「ま、そんなに焦らずに」とお返しすることにしています。焦ってどうにかなる世界は、とても狭くて暗い。そしてその世界がスタンダードになっていることに、少なくとも、ぼくの身体はついていけないみたいです。

 しかし世界は急速にその渦に飲み込まれ、もう止めようがないことは残念ながら歴史が証明しています。ユートピアなんてありゃしない。そんな世界の片隅で、真木悠介はこう言います。

 「小さな植物にひざまずき、カラスの声に予兆をききとって畏れるドン・ファンの共感能力があれば、水俣病は起こらなかったはずだ。人間主義(ヒューマニズム)は、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられうる[1]。」

 最近若い友人から薦められた本にこんな言葉が書いてありました。ドン・ファン、いわゆるネイティブ・アメリカンの言葉というのは、胸に刺さるものがあります。でもその彼らに「共感できる自分たちの感覚」を、今一度言葉にし直してみること。この図書館を通じて、ゆるゆるとやっていきたいと思っています。

[1]真木悠介『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫、54頁。)